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168号出来! 2024年8月末刊行
特集▼
21世紀を読み解く!
若い世代の思想家、作家たち
——この一冊
168号目次
梟VS雄鶏 河村厚「曇鬱と必然」
特集「21世紀を読み解く! 若い世代の思想家、作家たち――この一冊」
(特集リード 木村倫幸)
綾目広治 トマ・ピケティ『来たれ、新たな社会主義──世界を読む 2016-2021』(2022年、みすず書房)
神谷光信 保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー──オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』(2018年、岩波現代文庫)
木村倫幸 プレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(2021年、新潮文庫)
島﨑 隆 斎藤幸平『マルクス解体──プロメテウスの夢とその先』(2023年、講談社)
立花 晃 丸山俊一『マルクス・ガブリエル 日本社会への問い──欲望の時代を哲学するⅢ』(2023年、NHK出版新書)
内藤 酬 田村あずみ『不安の時代の抵抗論――災厄後の社会を生きる想像力』(2020年、花伝社)
細谷 実 清田隆之『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(2023年、双葉文庫)
丸山茂樹 青木美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』(2021年、文春新書)
三上 晋 永井玲衣『水中の哲学者たち』(2021年、晶文社)
森田弘造 與那覇潤『知性は死なない──平成の鬱をこえて』(2021年、文春文庫)
矢板 進 小松原織香『当事者は嘘をつく』(2022年、筑摩書房)
吉永 剛 王寺賢太『消え去る立法者』(2023年、名古屋大学出版会)
若森章孝 松村圭一郎『くらしのアナキズム』(2021年、ミシマ社)
和田龍三 エドワード・スノーデン『スノーデン 日本への警告』(2017年、集英社新書)
論文など
西田照見「新しい世界観の一試論」
永井 務「フランクフルト学派第一世代とアメリカ批判理論前史――初期ホルクハイマー、ポロック、『啓蒙の弁証法』」
荒巻共三「デカルトからの誘(ルビ:いざな)い」連載第1回
Yuiken交差点
藤井祐介 167号特集「戸坂潤と唯物論研究会(1932-38)」論評
萩ルイ子「愛と恨の抱擁家族」
本誌編集委員会「季報『唯物論研究』第167号掲載川島祐一論文についてのご報告とお詫び」
(5)書評
綾目広治・日野範之・神谷光信 堀田善衛の会編『堀田善衛研究論集――世界を見据えた文学と思想』
稲岡義朗 日野範之文集『倶会一処』
167号 2024年5月末刊
特集▼
戸坂潤と唯物論研究会(1932-38)
167号目次
巻頭エッセー
李依妮「思想史から社会史へ――阿部謹也とその「社会史」を考える」
特集 戸坂潤と唯物論研究会(1932-38)
リード 田畑稔
北林雅洋「唯物論研究会の研究活動と戸坂潤」
藤井祐介「戸坂潤と中井正一――「委員会の論理」前史」
大石和雄「戸坂潤の唯物論哲学の意義とその継承のために―一元的歴史哲学としての唯物論的弁証法への途」
田畑稔「戸坂潤と「哲学の現実諸形態」・覚書」
[行間1.5]
平等文博「赤松啓介の諸活動と唯物論研究会」
木村倫幸「『世界文化』、『土曜日』と久野収」
川島祐一「木下尚江と永田廣志―二つの親鸞論」
高根英博「闘う唯物論へ――唯物論研究会と「戦無」」
泊寛二「梯明秀の唯物論と量子力学への接近」
論文
大藪龍介「山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘(2)」
永井務「アメリカ批判理論と現象学的マルクス主義(下)」
Yuiken交差点
斎藤日出治「66号特集「21世紀世界とポスト資本主義の理論と実践」論評――ポスト資本主義の地平はなぜ、いかにして浮上したのか?」
田畑稔 「大賀正行さんを偲ぶ」
丸山茂樹「有機的知識人・ネットワーカーだった柏井宏之さんを悼む」
書評
孫佳 渡辺憲正『マルクス所有形態論の研究――所有と個体性の世界』
矢板進 村岡由梨 詩集『眠れる花』
166号 2024年2月末刊行
特集▼
21世紀世界と
ポスト資本主義の
理論と実践
166号目次
巻頭エッセー
木村倫幸 遺骨収集と「硫黄島」
特集「21世紀世界とポスト資本主義の理論と実践」
リード(田畑稔)
若森章孝「ポスト資本主義の経済、政治、倫理とコモンズ」
白川真澄「脱成長論の挑戦」
尾関周二「「人新世」下の脱資本主義化と労農アソシエーション」
植村邦彦「贈与とコミュニズム――モースとマルクス」
丸山茂樹「創造なくして破壊――「ポスト資本主義」の実現はありえない」
田嶋康利「「協同労働」の可能性と課題――労働者協同組合法施行から1年を経過して」
津田道夫 インタビュー「能勢農場・関西よつ葉ネットと地域運動について」
聞き手 田畑稔
吉永剛志「ポスト資本主義の理論と実践」
木村真 インタビュー「地域と市政の現場で問われていること」
聞き手 田畑稔
榎原 均「戦争廃絶に向けての提言」
村岡 到「「人間性社会主義」と「創共協定」――池田大作氏を追悼する」
論文
孫 佳「意識の生成――日本におけるマルクス意識論論争をめぐって」
Yuiken交差点
島崎 隆 165号特集「中間総括・唯物論論争」論評
書評
神谷光信 スヴェン・リンドクヴィスト『すべての野蛮人を根絶やしにせよ――『闇の奥』とヨーロッパの大量虐殺』
特集▼
中間総括・唯物論論争
165号
165号目次原稿
巻頭エッセー 平等文博「プリーモ・レーヴィの闘いとガザの人道危機」
特集 中間総括・唯物論論争
特集リード(田畑稔)
田畑稔「マルクス「唯物論」の再読作業」
島崎隆「本当の唯物論とは何か、本当の哲学とは何か」
牧野広義「哲学の根本問題、実践的唯物論、反映論について」
佐々木隆治「唯物論的に考えるとはどういうことか」
石塚正英「フェニキア神話に私の唯物論を読み込む」
小田智敏「物質と希望――エルンスト・ブロッホ『唯物論問題』を読む」
北林雅洋「戸坂潤の「技術」とその意義」
服部健二「舩山信一と梯明秀の唯物論について―マグリットのシュールな絵画を手掛かりに」
高根英博「破局の予兆の前で――闘う唯物論、終りの唯物論」
論文
大藪龍介「山川イズム――日本におけるマルクス主義創成の苦闘(1)」
永井務「アメリカ批判理論と現象学的マルクス主義(上)」
小森成樹「リニア・ノー! その勇気と責任を」
Yuiken交差点
若森章孝 164号特集「21世紀世界を読み解く:この一冊」論評
藤岡寛己 「著者の許にとどかない書評――松田博氏(1942.12-2023.4)を追悼する」
書評
孫 佳 服部健二『唯一者と無─シュティルナー・フォイエルバッハ論争を見直す』
164号
164号目次
梟vs 雄鶏
豊田剛 「カント『「啓蒙とは何か」という問の答』(1783)――『歴史哲学論文集』より」
特集 読者参加型特集「21世紀世界を読み解く・この一冊」
リード 木村倫幸
【I部】
綾目広治 柄谷行人『力と交換様式』――問題はやはり経済だ
生駒 敬 白川真澄『脱成長のポスト資本主義』――「脱成長」論が提起する課題と現実
石塚正英 寿歴史研究会編『横浜寿町―—地域活動の社会史』(上下)――ドヤ街生活圏への二一世紀的視線
小野正嗣 田上孝一『99%のためのマルクス入門』――現代に生きるマルクス
河上睦子 柴⽥隆⾏『連帯するエゴイズム―—いまなおフォイエルバッハ』――フォイエルバッハ哲学における「未来へのメッセージ」
武田信照 スザンヌ・シマード『マザーツリー――森に隠された「知性」をめぐる冒険』――新たな森林観の提示
立花晃 マルクス・ガブリエル『つながり過ぎた世界の先に』
丸山茂樹 社会的連帯経済研究会『生協総研レポートNo.98』――新しい世界変革の戦略としての“社会的連帯経済”
銘苅千栄子 和泉真澄・坂下史子・土屋和代・三牧聖子・吉原真理『私たちが声を上げるとき――アメリカを変えた10の問い』
安間和久 トマ・ピケティ『来たれ、新たな社会主義』
吉永剛志 立木康介『極限の思想 ラカン 主体の精神分析的理論』
若森章孝 アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『アセンブリ――新たな民主主義の編成』
脇田愉司 竹田青嗣『哲学と何か』――哲学の再生のために
【II部】
緒方浩 島薗進・橋爪大三郎『人類の衝突――思想、宗教、精神文化からみる人類社会の展望』
神谷光信 堀田善衛『上海にて』
谷本純一 マルクス『一八世紀の秘密外交史』――「何度目かの茶番」としてのウクライナ戦争
細谷実 岡野八代『フェミニズムの政治学――ケアの倫理をグローバル社会へ』――近代政治思想に対する根源的批判
三上 晋 大江健三郎『沖縄ノート』――脱日米核安保・平和建設の主体形成をめざして
室伏志畔 ウィリヤム・G・カー『闇の世界史』――この書に載るロスチャイルド家の「議定書」
森田弘造 S・クラカウアー『カリガリからヒットラーまで』――フリードリヒ大王と水戸黄門
山本悠太郎 竹西寛子『儀式』――「広島が言わせる言葉」を受け取るために
米倉克良 松下圭一『ロック「市民政府論」を読む』――中世の封建的自由、その複合と反復
Yuiken交差点
松田博追悼
田畑稔「松田博さんとの出会い、そして松田さんへの感謝」
尾場瀬一郎「松田博先生のグラムシ『獄中ノート』研究」
鮫島京一「松田博先生が教えてくれたこと」
松田博 季報『唯物論研究』誌執筆一覧
島崎隆 究極の治療法・健康法としての「水素療法」
田畑 稔 「163号 中村徳仁責任編集「回帰する思弁的唯物論――エルンスト・ブロッホ再考」特集・論評」
163号
梟VS雄鶏
高根英博 仏教雑感――大阪哲学学校の講義から
特集 中村徳仁責任編集 回帰する唯物論――エルンスト・ブロッホを読み直すために
中村 徳仁
特集イントロダクション 回帰する思弁的唯物論
――エルンスト・ブロッホを読み直すために」
秋田 市太郎
E・ブロッホにおける「寒流・暖流」とその物質性
宮崎 直美
初期ブロッホにおける「無意識的意志」と社会理論
中島 新
未来を孕むマテリエ
―― E ・ブロッホのシェリング受容をめぐる考察
小田 智敏
物質の論理学
秋元 由裕
エルンスト・ブロッホにおける自然支配の問題
――『希望の原理』の技術論について
石田 喜嵩
「私は」と書くとはどういうことか
──正宗白鳥を通してブロッホを読む
下山史隆
天体の調和
――ベンヤミンとブロッホにおける音楽と天文学的メタファーをめぐる対立
小林 雅博
物質の神学
── G・グティエレスとE・ブロッホにおける希望の概念について
論文その他
津田直則
社会的連帯経済と資本主義の変革――グローバル社会的連帯経済協議体(GSEF)2023年アフリカ・ダカール大会に向けた関西プレフォーラム(2023年3月11日、大阪市東淀川区の協同会館アソシエにて)での報告
西田照見
マルクス的発想の再検討――斎藤幸平氏・故寺岡衛氏の論にも触れて
川島祐一「戦時下日本哲学思想史にみる永田廣志
yuiken交差点
大黒弘慈 伊藤誠先生のこと
志水紀代子追悼 大越愛子さん
木村倫幸 162号特集「差別と人権――闘いの現在と課題」論評」
書評
若森章孝 藤田真哉・北川亘太・宇仁宏幸『現代制度経済学講義』
亀山純生 河上睦子『「人間とは食べるところのものである」
――「食の哲学」構想』
綾目広治 木村勲『鴎外を考える――幸徳事件と文豪の実像』
162号出来!2023年2月刊
特集▼
差別と人権
――闘いの現在と課題
梟vs雄鶏
田畑稔 マルクス生活過程論の探求・近況
特集「差別と人権――闘いの現在と課題」(特集リード 田畑 稔)
友永健三 いま改めて、人権について考える
銘苅千栄子 女のまなざしから考える沖縄・ウクライナ
――「暴力」に抗う手がかりを探して
松岡千紘 性売買と自己決定――セクシュアリティをめぐる構造と個人
西村寿子 人権、ジェンダー、メディアリテラシー
――グローバル・メディアモニタリング・プロジェクト(GMMP)2020から
高賛侑 ドキュメンタリー「ワタシタチハニンゲンダ!」に託す思い
日野範之 高木顕明師と初期社会主義――その社会主義の理解
徳永裕二「被差別民」考
論文
大田孝太郎 人間の<自由>を求めて――ヘーゲル講義(一)
捧 堅二 梅棹生態史観再考――第二地域と帝国
岡和田晃 「未来学」批判としての「内宇宙」
――山野浩一による『日本沈没』評からフェミニズム・ディストピアまで(下)
曲田尚生 夜空に瞬く平和の星に手を伸ばして――坂口安吾と日本国憲法第9条
yuiken交差点
山口協 161号読者参加型緊急特集「戦争と平和を考える
――ウクライナ戦争と現代世界に課せられた課題」論評
泊寛二 物質の哲学的概念――全自然史過程の思想・哲学者梯明秀を訪ねて
萩ルイ子 改作詩三篇
書評
若森章孝 植村邦彦『カール・マルクス――未来のプロジェクトを読む』
木村倫幸 小田康徳『軍隊と戦争の記憶――旧大阪真田山陸軍墓地、保存への道』
林大地 若松英輔『小林秀雄 美しい花』
161号 2022年11月刊
(1)巻頭エッセー
石塚迅 「立憲主義を選びなおす」
(2)木村倫幸責任編集「緊急特集 戦争と平和を考える―ウクライナ戦争と現代世界に課された諸問題」
特集リード(木村)
(一)
寺島俊穂 ウクライナ戦争の衝撃
白川真澄 ウクライナ戦争と私たちに問われるもの
島崎隆 ロシアによるウクライナ侵攻問題をどう見るか─哲学的認識論の見地から
柳澤有吾 「ウクライナ支援」が意味するもの──戦争倫理学の一視角
安間和久 ユルゲン・ハーバーマス『戦争と憤激』について
(二)
石塚正英 「国家の戦争と民間の戦争の交叉する二〇二二年ウクライナ」
小野正嗣 「「熱き心」以って停戦を!──ウクライナ侵攻で考えたこと」
神山睦美 「ウクライナ戦争をどうとらえるか」
内藤酬 「勝者なき戦争──核とネットワーク」
丸山茂樹 「今こそ行動の時──戦争肯定・軍備拡張・原発再稼働・改憲に抗して」
三上晋 「ロシアがウクライナに侵攻するに至った諸経緯」
村山章 「守るということ──何を守るのか?」
室伏志畔 「地球号・阿呆船の漂流」
若森章孝 「アメリカのアフガニスタン侵攻とウクライナ軍事支援の理念を問う」
(三)
藤田明史 「ロシア/ウクライナ紛争の提起するもの」
川島祐一 「ジーン・シャープ非暴力抵抗の理論」
榎原 均 「陣地戦の新しい理論」
斎藤日出治 「主権国家を超える時代の戦争」
福田玲三 「中国をどう見るか」
脇田愉司 「この国の統治構造から、平和(戦争)を考える」
和田龍三 「ウクライナ戦争は「西洋」という価値観の終わりを告げる」
(四)
綾目広治 「戦争を無くすためには──神山睦美『戦争とは何か』を読む」
神谷光信 「堕落した戦争の亡霊──中井久夫『戦争と平和 ある観察』再読」
木村倫幸 「アレクセーヴィッチ『戦争は女の顔をしていない』を読み返す」
小谷静良 「ロシアのウクライナ侵攻・読書覚え書き――余命少ない仏者の私は如何に尽きるか」
佐々木正明 「プーチンの戦争と赤の広場の「Back in the U.S.S.R.」
立花晃 「ウクライナ紛争における第二の死としての文化芸術の破壊」
山本悠太朗 「非政治的な政治」としての詩──ナチス占領下のチェスワフ・ミウォシュの場合
石崎嘉彦 ポストモダンのアンチ・チィラノス考について
(3)論文その他
大藪龍介 『マルクス主義理論のパラダイム転換へ』に対する加藤哲郎、田畑稔、斉藤幸平の書評へのリプライ(下)
(4)yuiken交差点
三浦隆宏 160号特集「哲学学校、哲学塾、哲学カフェ大集合」論評
森田弘造 安倍晋三の死とその周辺
隅田善四郎 ハインリッヒ・ハイネを読む(1)
(5)書評
吉永剛志 小峰ひずみ『平成転向論――SEALDs、鷲田清一、谷川雁』
斉藤日出治 津田直則『資本主義を超える経済体制と文明――改革から変革へ』
160号 2022年9月刊
梟VS雄鶏
山口協 「まさかこの時代」に――ロシアによるウクライナ侵略戦争を考える
細谷実・三浦隆宏・百木漠・平等文博共同編集
特集「哲学学校、哲学塾、哲学カフェ大集合」
さっぽろ自由学校「遊」
みらいつくり哲学学校
人文学の学校KUNILABO/じんぶんカフェ
哲学カフェ横浜
こども哲学・おとな哲学 アーダコーダ
GACCOH
京都アカデメイア
ソトのガクエン
山の学校
茨木市民自主講座『哲学カフェ』
テツガク茶話会
大阪哲学学校
カフェフィロ(Café Philo)
三浦隆宏 哲学のサードプレイスのこれまでとこれから
百木漠 オンライン化で得たもの、失ったもの
平等文博 大阪哲学学校の三六年の経験を反省して
細谷実 哲学対話について
論文
大藪龍介 『マルクス主義理論のパラダイム転換へ』に対する加藤哲郎、田畑稔、斉藤幸平の書評 へのリプライ
藤田隆正「尊厳論の哲学 第3章(下)
川島祐一 戦争の時代における木下尚江
岡和田晃 「未来学」批判としての「内宇宙」――山野浩一による『日本沈没』評からフェミニズム・ディストピアまで(上)
yuiken交差点
月ヶ瀬悠次郎 159号「表現の自由と不自由の狭間で揺れる社会」論評
松田博 田口富久治さん追悼
義積弘幸 カント「万物の終り」覚書
藤田美代子 久保下多美子さん追悼
書評
駒込武・藤井悦子 吉永剛志『NAM総括:運動の未来のために』
田畑稔 吉田智弥『自称サヨク活動家の50年』
徳永裕二『外道曼荼羅III』、
木村倫幸 朝治武、谷元昭信、寺木伸明、友永健三編著『続部落解放論の最前線――水平社百年を踏まえた新たな展望』
徳永裕二 松山愼介『「昭和」に挑んだ文学』
159号 2022年5月発行
巻頭エッセー
三上 晋 なぜ文学?チェルヌィシェフスキイの「理性的エゴイズム」について
特集「表現の自由と不自由の狭間で」
リード 立花晃4251字
渡辺智暁インタビュー/聞き手 立花晃 今、表現の自由とは何かを考える――表現の自由を巡る海外の動向から
西村秀樹 資料 日本ペンクラブ「あいちトリエンナーレ報告書」
立花 晃 アート作品の評価とその価値に関する考察――「表現の不自由かんさい」を事例に
油井清光 「表現の自由」と社会学における文化生産研究の変容
村山 章 アーティフィシャル・アートへの妄想
佐々木正明 ウクライナが教えてくれた「表現の自由」
西村秀樹 ヘイト・差別と「表現の自由」
天野健作 新聞記事の「表現の不自由」――読者離れの要因を探る
中川寧越 自由社会のための知的契機――能力主義とDEI
上野敏寛 企業の組織マネジメントと表現の自由
久保友美 大学のアクティブ・ラーニングプログラムのオンライン化による制限と可能性
田畑 稔 /聞き手 隅田善四郎 1938年11月29日と40年1月24日の「唯物論研究会一斉検挙」と思想・表現の自由
論文その他
松田 博 グラムシ研究の現代的課題についての覚書
yuiken交差点
石塚正英 シュタインとフォイエルバッハの学徒――畏友柴田隆行のこと
小田智敏 158号特集「幻想論再考」論評
田嶋康利 「労協法附則第三条」をめぐって―—労協法は、就労継続支援A型事業の利用者の組合参加を「門前払い」するものなのか?
義積弘幸 カント「啓蒙とは何か」を読む――自分で考えることの勧め
書評
室伏志畔 神山睦美『「還って来た者」の言葉――コロナ禍のなかでいかに生きるか』
木村倫幸 稲泉連『廃炉――「敗北の現場」で働く誇り』
編集後記(立花)
158号 2022年2月刊行!
158号「幻想論再考」特集目次
巻頭エッセー
梟VS雄鶏
日山紀彦 「二十一世紀人新世の資本主義社会の命運」と新たなアソシエーション社会の到来の地平
特集「幻想論再考」
リード(田畑)
I
石塚正英 プシュケーという幻想態――蝶か息吹か魂魄か
田畑 稔 現実、意識、イメージ、そして幻想――生活過程論からのアプローチ
小田智敏 物質の最前線としての幻想――エルンスト・ブロッホのシェリング受容と批判
服部健二 「月をめで花をながめしいにしへの」
II
神山睦美 フロイトの幻想論――吉本隆明の幻想論を交えて
徳永裕二 幻想としての外道信仰
室伏志畔 吉本幻想論による皇統一元史の解体――大逆皇統論
高根英博「架空・虚空・虚体・虚数としての現代美術――かつてなくこれからもないもの」
木村倫幸 原発『安全神話』から『安心神話』へ
論文
藤田隆正 尊厳論の哲学 第3章(上)
yuiken交差点
田上孝一 157号 「特集I 資本主義を超える:21世紀社会主義の思想・運動・組織」論評
柏井宏之 「労協法附則第三条」をめぐって――「附則第三条」は「労協法」の従事組合員の労働を尊重する理念に反していないか?
義積弘幸 「障害の受容と神学」を読む
田畑 稔 鈴木正追悼
鈴木 正 季報『唯物論研究』執筆一覧
書評
斉藤幸平 大藪龍介『マルクス主義理論のパラダイム転換へ――マルクス・エンゲルス・レーニンの国家論の超克』
藤岡寛己 松田博『グラムシ「未完の市民社会論」の探求――獄中ノートと現代』
吉永剛志 柄谷行人『ニュー・アソシエーショニスト宣言』
川島祐一 田上孝一『99%のためのマルクス入門』
157号 2021年11月刊行!
梟VS雄鶏
米倉克良 松下圭一政治理論と経済軸――政策の束としての社会構成体(2)
特集I 資本主義を超える:21世紀社会主義の思想・運動・組織
特集リード(田畑)(8)
田嶋康利 労働者協同組合法を実践にどう生かすのか――労働観の転換を促す運動を地域からつくる(14)
丸山茂樹 世界変革への道筋――社会的連帯経済と協同組合(24)
白川真澄 脱成長のポスト資本主義へ――新しい社会構想と運動(32)
榎原均 階級闘争の理論から陣地戦の理論へ(44)
柏井宏之 生きづらい人々の課題こそ焦点――グローバリズムと現代サバルタン(56)
村岡到 友愛社会主義論の探究(62)
松尾匡 ミクロとマクロからの社会主義的変革の二契機——リスク・決定・責任とマルクスの自由論(78)
永井務 アメリカ社会民主主義の哲学――「純粋経験」と「取引」(92)
成田大起 内在的批判としての社会主義――アクセル・ホネット『社会主義の理念』の意義と課題(104)
特集II 斎藤幸平『人新世の「資本論」』――私はこう読んだ
三上晋 我が生活圏におけるコモン ――産廃処分場新設阻止闘争と関係づけて(118)
吉永剛志 運動内部者の微視的感想――かつてNAMに参加した身から(122)
津田道夫 自分達の運動と重ねつつ(126)
大石和雄 「脱成長のコミュニズム」の提唱から脱資本主義の共産主運動へ」(130)
李依妮 ウォーラステインの世界システム論における環境問題意識――斎藤幸平『人新世の「資本論」』との関りで(134)
村山章 交換価値から使用価値へ(138)
木村倫幸 斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読んでのコメント二つ(143)
内藤酬 人新世の科学論――斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読んで(146)
和田龍三 ヨーロッパ中心主義からの決別(149)
綾目広治 マルクス再評価の気運の中で――『人新世の「資本論」』を読む(152)
小野正嗣 オールド・マルクスも捨てたもんじゃない(155)
徳永裕二 斎藤幸平『人新世の「資本論」』を巡って(158)
細谷実 「脱成長コミュニズム」の政治について――斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読む(164)
高田純 環境危機への抜本的対応をめざして(174)
島崎隆 エコロジー的マルクス主義に関わる最近の論争点――斎藤幸平の問題提起を中心に(182)
特集III 大藪龍介『マルクス主義理論のパラダイム変換へ――マルクス・エンゲルス・レーニンの国家論の超克』をめぐって」
加藤哲郎 マルクス主義国家論の回顧・再論――大藪龍介『マルクス主義理論のパラダイム変換へ』によせて(200)
田畑稔 議論をどうクロスさせるか――大藪龍介国家論研究を読む(212)
yuiken交差点
木村勲「上宮法皇と厩戸豊聡耳及び聖徳太子につき…――やすい評への反論を兼ねて(222)
長島功 156号特集「中間総括:疎外論論争」論評」(232)
義積弘幸 エッセイ・人生の探究(本誌151号)補記(237)
書評
安孫子誠男 斎藤日出治『資本主義の暴力――現代世界の破局を読む』(242)
木村倫幸 榊原崇仁『福島が沈黙した日──原発事故と甲状腺被ばく』(246)
156号
季報『唯物論研究』156号 2021年8月31日発行
梟vs 雄鶏 永井務「医師 莇昭三先生――北陸の思想風土でいのちの平等を拓く
特集「中間総括:疎外論論争」
特集リード(田畑稔)
大田孝太郎「ヘーゲル疎外論再考(一)」
長島 功「ヘーゲル『精神現象学』の疎外論の構図」
川本 隆「疎外論の陥穽――フォイエルバッハの宗教批判によせて」
日山紀彦「「疎外論から物象化論へ」とはどういうことか」
田上孝一「マルクスの理論的核心としての疎外論」
細見和之「超えてはならない深淵」
立花晃「創造と日常性の空間からの疎外と、抵抗としてのアート・アクティビズム
――アンリ・ルフェーヴル「疎外論」からの考察」
やすいゆたか「脱労働社会化と疎外論の新展開」
論文その他
藤田隆正「尊厳の哲学第2章 人間尊厳の実存的基盤――「相互善」「崇高」「かけがえのなさ」」
松田博「グラムシ「未完の市民社会論」についての覚書(再論)」
李依妮「フリードリッヒ・リストの思想の源泉 positive Quellen
――アメリカ以後か、アメリカ以前か」13342字
yuiken交差点
稲岡義朗 155号河上睦子・山口協責任編集「食の思想」特集論評
書評
和田龍三 稲岡宏蔵『核被害の歴史――ヒロシマからフクシマまで』
やすいゆたか 木村勲『聖徳太子は長屋王である――冤罪「王の変」と再建法隆寺』
木村倫幸 竹森知『泉佐野市税務課長975日の闘い──ミッションインポッシブル──関空連絡橋に課税せよ!』、中道達也『泉佐野市とふるさと納税の真実』
155号 2021年5月
季報『唯物論研究』第155号 2021/5
編集・発行 季報『唯物論研究』刊行会
梟VS雄鶏 やすいゆたか 脱労働社会化への『資本論』のために
河上睦子・山口協責任編集 特集 コロナ禍のなかで「食」を考える
特集リード 河上睦子
「農と食について」
山口 協 コロナ禍の中で考える「農」
徳永裕二 「食と農」を巡って浦田(東方)沙由理 食・農・身体における自然の排除とエコロジーからのとらえなおし
「日々の食(事)について」
木澤夏実 カウンターの内側で書いた、コロナ禍の記録
髙坂 勝 そっち(都会)の食はに~がいぞ、こっち(田舎)の食はう~まいぞ――食は職に通ずる
田上孝一 動物倫理学からする食の規範……()
「食の世界」について
河上睦子 コロナが変える「食」の世界――「いのちと経済」で揺れる「食の思想」を考える
亀山純生 日本仏教における食の思想の基本視座――中世における不殺生戒の日本的展開を介して
石塚正英 ギュウバトン――文化で食べる・文化を食べる
檜垣立哉 食べることの自然――レヴィ=ストロース『神話論理』瞥見
論文
永井 務 反民主主義のアメリカ白人産業労働者
橋野高明 障害の受容と神学――障害者・牧師の場から(下))
立花 晃、井関 崇博、岡元 明希 二次創作市場の構造と創造的自律空間の形成に関する考察――コミックマーケットを事例に(下)
yuiken交差点
平等文博 154号特集「21世紀の尊厳論を問う」論評
三室 勇 落合祥堯さん追悼
義積弘幸「私の『未成年』論―激動のロシア史の一齣―第三部「第十三章エピローグ」を読む(最終回)
書評
武田信照 斉藤幸平『人新世の「資本論」』
木村倫幸 中村敏子『女性差別はどう作られてきたか』
室伏志畔 西村好子『やさしい漱石』不知火書房
編集後記(山口 協)
154号 2021年2月
154号目次
梟VS雄鶏巻頭
室伏志畔 固有名詞の迷宮
特集 21世紀の尊厳論を問う
最首 悟 間学の軌跡
久保下多美子 マイノリティーの尊厳を考える
木村倫幸 人間の尊厳・権利と無戸籍者問題
牧野広義 人間の尊厳と個人の尊重
豊田剛 カント「尊厳」論の構造と意義
藤田隆正 尊厳の哲学
田畑稔 歴史的アプリオリまたはアプリオリの歴史化について・覚書
論文その他
木村勲 幸徳ら全刑死者の冤罪を証す――法理に悖る大逆と平出修の怒り
服部健二 類概念と対象的存在の論理―シュティルナー・フォイエルバッハ論争の考察―
橋野高明 障害の受容と神学-障害者・牧師の場から-(中)
立花 晃、井関 崇博、岡元 明希 二次創作市場の構造と創造的自律空間の形成に関する考察
――コミックマーケットを事例に(中)
yuiken交差点
高田純 153号特集「コロナ危機特集」論評
〇室伏志畔 奥野正男追悼
〇義積弘幸 私の『未成年』論―激動のロシア史の一齣―第三部・第七章を読む(第10回)
書評
平井一臣 大藪龍介『日本のファシズム――昭和戦争期の国家体制をめぐって』
木村倫幸 河合洋尚『<客家空間>の生産――梅県における「原郷」創出の民族誌』
153号出来! 2020年12月刊行!
153号目次
梟VS雄鶏
村山章「『<現在>という謎』について」
緊急特集「我々はコロナ危機から何を学ぶべきか」
リード(田畑)
I
柏井宏之「「コロナ災害」が生んだ新しい主体――共生の社会的協同組合に向かって」
永井務「新型コロナウイルス感染症とトランプの反知性主義――反リベラリズムと反近代の帰結」
丸山茂樹「政治権力vs市民のアソシエーション―管理社会化への道か、自主管理・社会的連帯への道か?」
和田龍三「新型コロナウイルスと公共」
松田博「「新型コロナ問題」とグローバル危機についての覚書」
II[エッセー]ポイント落とす
武田信照「新型コロナ禍雑感」
荒巻共三「豪雨災害とコロナ禍と――この7月に豪雨災害があった大牟田の一市民より」
佐野米子「「コロナ禍」に思う」
吉田智弥「「自助」と「自粛」は真逆の関係」
津田道夫「PCR検査の怪」
柴田隆行「我々はハンセン病から何も学ばなかった」
三上晋「何をなすべきか・そしてそれを成し遂げたいか――コロナ危機における主権者として」
木村倫幸「コロナ禍と《「人災」、「殺すな」、「われ=われ」》──4半世紀前の小田実の視点を手がかりにして考える」
神谷光信「コロナ禍の日本を照射する小説――エドガー・アラン・ポー「旋渦に吞まれて」」
木村勲「紅海は善意で割れた――愛蘭(アイルランド)路の奇跡 及び”その男”のこと」
III
島崎隆「コロナ禍において思想をいかにつむぐのか――ジョルダーノ『コロナ時代の僕ら』を読む」
内藤酬「自然に対する支配の終わり――自然災害・原発事故・感染症」
境毅「新型コロナ後の知とは――ラトゥールの政治思想に学ぶ」
矢板進「<共同性>をめぐって―新型コロナをきっかけに」
石塚正英「コロナ禍にみる呪術的闇と科学的闇―フレイザー『金枝篇』を参考に」
徳永裕二「「剥ぎ出しの生」の下での「コロナ禍」――「我-我」は何処に居るのか」
石崎嘉彦「パンデモス・エロスにどう向き合うか?」
yuiken交差点
藤岡寛巳「152号特集「中間総括・市民社会論論争」論評」
書評
立花晃 吉原直樹 ・榑沼範久編『都市は揺れている――五つの対話』
斉藤日出治 村岡到『左翼の反省と展望―社会主義を志向して60年』
152号
梟VS雄鶏巻頭
田畑稔 2020年パンデミックと「生活過程論」
特集「中間総括・市民社会論論争」
特集リード(田畑)
恒木健太郎 「資本主義と市民社会」の戦中と戦後
――大塚久雄の問題意識の連続と断絶
寺島俊穂 松下圭一の視点――市民社会論に寄せて
藤岡寛己 「市民社会」は可能か?――羽仁五郎『都市の論理』を読む
斉藤日出治 〈総過程的概念としての政治〉の発見―平田清明の市民社会論再考
村上俊介 市民社会論と近代-山之内靖の「反近代」と望月清司の「近代」
平子友長 望月清司氏のマルクス市民社会論批判(下)
高根英博 外部と土着、そして市民社会
松田博 グラムシ「未完の市民社会論」についての覚書
植村邦彦 その後の「市民社会」論
塩田潤 2010年代におけるラディカル・デモクラシーの実践的理論的展開
論文その他
柏井宏之 実践的市民運動踏まえアジアの協働へ――『西暦二〇三〇年における協同組合』を編んで
室伏志畔 日本書紀成立から千三百年「日本書紀の誤読」の向こう側 ―簒奪皇統論―
yuiken交差点
捧堅二 151号特集「生きる場から考える生と死」論評
書評
川本隆 柴田隆行『連帯するエゴイズム―いまなおフォイエルバッハ』
石塚正英『フォイエルバッハの社会哲学――他我論を基軸に』
島崎隆 ケヴィン・アンダーソン『ヘーゲル弁証法とレーニンの哲学的両義性
――西欧マルクス主義への可能性の探究』
151号
巻頭エッセー 梟VS雄鷄 河合洋尚 微信(WeChat)時代の中国と人類学
特集「生きる場から考える生と死」
リード 平等文博
重久俊夫 一人称の死を考える
久保下恵美子 がん患者として自らの生と死を考える
稲岡義朗 死を物語ることについての対話
村山章 生と死と断捨離と
藤田隆正 生活者の視点からみた生と死 戸坂潤と中村哲をつなぐもの
小谷静良 老聖75歳の終焉、死ぬまで戯れ遊び尽す命
橋野高明 障害の受容と神学-障害者・牧師の場から-(上)
善積弘幸 エッセイ・人生の探求
徳永裕二 「人身御供」をめぐって
高根英博 恐怖の死、人知れずの生、殺戮・戦争
論文
永井務 典型的ナルシシスト・トランプ大統領を支持する白人産業労働者
服部健二 フォイエルバッハの弟宛て書簡について―シュティルナーとの論争解釈史についての混乱
島崎隆 マルクスによるヘーゲル批判の再読(完)
Yuiken交差点
成田大起 150号特集「アクセル・ホネットと現代社会理論」論評
福田玲三 柴山健太郎追悼 在りし日の柴山健太郎氏
木村倫幸 死刑制度廃止の議論を今一度──北欧ミステリーを一つのてがかりに
書評
植村邦彦/武田信照 書評 伊藤・大藪・田畑編『二十一世紀のマルクス――マルクス研究の到達点』
百木漠 寺島俊穂『ハンナ・アレント再論――〈あるべき政治〉を求めて』
銘苅千栄子 綾目広治『述志と叛意――日本近代文学から見る現代社会』
西村好子 神山睦美『終わりなき漱石』
150号
149号 2019年12月刊行
149号
梟VS雄鶏
稲岡義朗 石牟礼道子―苦しむ人
特集1 徹底討論:道徳教育を問い直す
特集リード:木村倫幸
桂正孝 「特別の教科 道徳」の実施をどうとらえたか――「少国民」世代の実感録から
土屋貴志 日本国公認学校道徳教育と人権教育
——「特別の教科 道徳」で人権教育が行えるわけ
森実 唯物論と道徳教育
奥野康孝 「信教の自由」と「君が代」と「道徳」
渡辺厚子 「日の丸・君が代」と教育勅語
相可文代 道徳の「教科化」と道徳教科書
木村倫幸「道徳教科書」と「悪」と「こころ」
平等文博 「道徳」教育と「てつがく」教育
桜井智恵子 資本制社会が求めた道徳教育
細谷実 道徳教育とシティズンシップ教育
脇田愉司 道徳哲学・道徳教育思想を読み解く―ルソー思想の本源から
特集2 世界の〈今〉を読む:この一冊(Part2)
矢板進 斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』
-<死>をいかに詠むか:東日本大震災への終わらない問い
木村倫幸 赤坂真理『箱の中の天皇』
徳永裕二 室伏志畔『誰が古代史を殺したか』
論文
平子友長 望月清司氏のマルクス市民社会論批判」(上)
大藪龍介『ブリュメール18日』をどう読むか」(上)
長島功 初期マルクスのスターリン主義的解釈の典型
-原田実『労働の疎外と市民社会』に見る
立花晃 井関崇博 岡元明希 二次創作市場の構造と創造的空間の形成に関する考察
書評
隅田善四郎 森信成『唯物論哲学入門』増補版
室伏志畔 添田馨『クリティカル・ラインー詩論・批評・超=批評』
148号!8月刊
148号目次
雄鶏VS梟
木村勲「令・和とは跪(ひざまず)いて上意を承(うけたまわ)ること――いま共和制を話すとき」
特集「世界の〈今〉を読む:この一冊」
●どこへ
松田博 U・エーコ『永遠のファシズム』原1997、岩波書店、1998、岩波現代文庫2018
――「異端審問と同調圧力」の源流への視線
形野清貴 シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』原2018、山本圭・塩田潤訳、明石書店、2019――今日の世界と左派ポピュリズムの可能性
伊藤晃 シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』原2018、山本圭・塩田潤訳 明石書店、2019――複数主義的な相互関係において運動を作るとはどういうことか
細谷実 バーナード・クリック『シティズンシップ教育論――政治哲学と市民』原2000、法政大学出版局、2011――政治の復活とその手続き的価値の教育のために
綾目広治 スラヴォイ・ジジェク『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』原2010、栗原百代訳、ちくま新書――二一世紀の革命論
●アメリカと中国
永井務 T.メイヤー『アナリティカル・マルクスシズム』原1995、瀬戸岡紘訳、桜井書店、2005――共和党のアイデンティティー危機について
小嶋康生 グレン・グリーンウォルド『暴露:スノーデンが私に託したファイル』原2014、田口俊樹、濱野大道、武藤陽生訳、新潮社、2014――丸裸にされた日本
柴山健太郎 李鋭『中国民主改革派の主張――中国共産党私記』小島晋治編訳、岩波書店、2013――中国共産党の活路を示す好著
石塚迅 胡平『言論の自由と中国の民主』原1975、石塚迅訳、現代人文社、2009
―――1989年が問いかけるもの
●日本
島崎隆 矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』集英社インターナショナル、2015――日本を真に変革するための政治的・歴史的問題として
白川真澄 井手英策『幸福の増税論――財政は誰のために』岩波新書、2018――日本の左派の常識にあえて挑戦する
和田龍三 中尾茂夫『日本が外資に喰われる』筑摩書房、2019――「失われた三〇年」をつくり出した外的要因とは何か
柴田隆行 山本義隆『近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻』岩波新書、2018――何のための研究か
銘苅千栄子 上間陽子『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』太田出版、2017――フェンスのオレンジ色の光 その向こうの闇
柏井宏之 辛基秀・柏井宏之編『秀吉の侵略と大阪城―ちょっと待て!「大阪築城400年まつり」』第三書館、1983――辛基秀さんの3つの工房から生まれた民衆文化運動
●世界歴史
武田信照 D.ハーヴェイ『資本主義の終焉』原2017、作品社、2017―-体制変革と環境問題
内藤酬 入江昭『歴史家が見る現代世界』講談社、2014――「国家の歴史」から「世界の歴史」へ
西田照見 中村哲『東アジア資本主義形成論』汲古書院、1994──歴史認識の省察
丸山茂樹 ラナジット・グハ『世界史の脱構築』原1998、竹中千春訳、立教大学出版会、2017――サバルタン視点から世界史と現代文明をトータルに問い直す
村山章 レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』原2005、NHK出版、2007――関数モデルとしての「人間+&」たちの適応生活
●その他
河上睦子 安井大輔編『フードスタディーズ・ガイドブック』ナカニシヤ出版、2019
――食研究において、なにを考えるべきか
石塚正英 鈴木勉『三角縁神獣鏡・同笵(型)鏡論の向こうに』雄山閣、2016 ――文化表象論で未来の社会思想を構想
吉田智弥 ミシェル・ウェルベック『服従』原2015、河出書房新社、2015――解放を求めて自己を裏切る
小野正嗣 木庭宏『ハイネの見た夢』NHKブックス、1994――「経帷子(きょうかたびら)を織ってやる」
鷲田小彌太 山本夏彦『わたしの岩波物語』文藝春秋 1994――正義だけは売ってはいけません
論文その他
石崎嘉彦 プラトンの民主制批判(下)
藤田隆正 マルクス倫理学構築宣言――倫理学批判要綱(3)
Yuiken交差点
松田博「追悼 高嶋正晴氏」
佐野米子「本誌147号141頁について一言」
神谷光信「井上光晴と二つの東京オリンピック(下)」
義積弘幸 「私の『未成年』論―激動のロシア史の一齣――第三部を読む(第8回)」
書評
奥間埜乃 向井豊昭『骨踊り』
森田弘造 田中邦夫『漱石『道草』の詩学』
147号!
梟VS雄鶏 平等文博 生きる場から考える生と死
特集 ポピュリズムの展開と大衆論の再審
特集リード 田畑
塩田潤 左派ポピュリズムと社会運動
松田博 ムフの「左派ポピュリズム」論についての若干の感想
永井務 ポピュリズムと民主主義――J.デューイの視点から――
杉村昌昭 ポピュリズム雑感――状況論的に――
石崎嘉彦 プラトンの民主制批判(上)
百木漠 アーレント、マルクス、ポピュリズム
尾場瀬一郎 グラムシ民間伝承論のアクチュアリティアクチュアリティ
――欧米における右派ポピュリズム勢力の台頭を背景にしてアクチュアリティ――
木村倫幸 小田実と『人びとの運動』
室伏志畔 ポピュリズムと天皇制――敗戦体質論――
論文その他
島崎隆 マルクスによるヘーゲル哲学批判の再読(中)
Yuiken交差点
木村倫幸『日本人と〈戦後〉 書評論集・戦後思想をとらえ直す』をめぐって
木村倫幸
書評Ⅰ 綾目広治
書評Ⅱ 和田龍三
書評Ⅲ 室伏志畔 搦め手書評からする戦後論
隅田善四郎 本誌146号 白川、松尾、宇仁論文を読んで
後藤裕司 政権を担う覚悟を問う
神谷光信 井上光晴と二つの東京オリンピック(中)
書評
宮田惟史 大谷禎之介『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』
高田純 大田孝太郎『ヘーゲルの媒介思想』
川島祐一 やすいゆたか『天照の建てた国 日本建国12の謎を解く 万世一系の真相』
徳永裕二 岸田秀『唯幻論始末記――わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか』
146号
146号目次
▼巻頭エッセー
藤田隆正 生活者からみた生と死
▼特集 資本主義は今:経済学者たちに聞く
白川真澄 リーマン・ショックから10年――何が変わったのか
松尾匡 レフト3.0の体制変革展望
宇仁宏幸 J・R・コモンズの制度経済学の哲学的基礎
梁峻豪 韓国の原州市事例からみた「社会的連帯経済」の条件と可能性
津田直則 社会的連帯経済論における経済体制と文明
▼論文その他
本多正也 アイヌ民族の近現代史が問うものは何か(下)
三上晋 君たちはなぜそして何を学ぶか
▼Yuiken交差点
高根英博 戦後二度目の新元号に人間としての道義をただす!
室伏志畔 元号論に一矢」5707字+表
保井温 哀しみのパトス、梅原猛を追悼する
神谷光信 井上光晴と二つの東京オリンピック
鈴木正 亡き鶴見俊輔さんへの思慕
義積弘幸 私の『未成年』論―激動のロシア史の一齣第三部を読む(第7回)
▼書評
日野範之 竹内栄美子・丸山珪一編『中野重治・堀田善衛往復書簡1953-1979』
川島祐一 石塚正英『マルクスの「フェティシズム・ノート」を読む』
小林昌人 日山紀彦『価値と生産価格:社会的物象化論を中心にして読み解く』
石塚正英 徳永裕二『外道曼荼羅』『不実考』
金子遊 神山睦美『日本国憲法と本土決戦:神山睦美評論集』
145号
145号目次
●巻頭エッセー
木村倫幸 「民主主義・平和・個の死の意味」とミステリー
●特集 マルクス生誕200年:マルクスと21世紀の現実展開
武田信照 マルクス・マルクス主義と現代――E.ホブズボームの遺著によせて
尾関周二 晩期マルクスと小農問題―現代の「労農アソシエーション」に向けて
榎原均 新しい大きな物語を紡ぎだそう――負債経済論を切り口に
石塚正英 マルクス左派の超家族論」12919字
斎藤日出治 商品世界と死の欲動――フロイトで読むマルクス
永井務 世界公民とフェミニズム—―普遍的正義と女性的配慮
島崎隆 マルクスによるヘーゲル哲学批判の再読(上)
橋本剛 マルクスの提起した〈人類史的課題〉の現在性
柴田隆行 フォイエルバッハから学んだマルクス、フォイエルバッハから学ばないマルクス研究者
小野正嗣 教育者自身が教育されねばならない――フォイエルバッハ・テーゼに寄せて
渡辺憲正 マルクスの〈労働゠所有形態〉論
松田博 グラムシとマルクス―『獄中ノート』におけるマルクス論の形成と展開
小原耕一 グラムシはマルクスをどう読んだか?
●論文その他
百木漠 解題『アーレントのマルクス』——寺島・斎藤両先生の批判に応えて
藤田隆正 マルクス倫理学構築宣言――倫理学批判要綱」(3)
●Yuiken交差点
義積弘幸 私の『未成年』論―激動のロシア史の一齣第三部を読む(第6回)
●書評
徳永裕二 大和岩雄『中臣・藤原氏の研究:古代日本国家論』
144号
140号
139号
グラムシ没後80周年記念フォーラムが開催されます。季報『唯物論研究』編集長田畑稔の記念講演を予定しています!
138号
137号
季報『唯物論研究』137号
梟VS雄鶏
米倉克良「万国津梁型協同組合の可能性」
特集「今、思想に問われているもの:思想の現在、思想家たちの現在」
リード(田畑稔)「今、思想に問われているもの:問題提起」
百木漠「超現実主義の時代」
丹羽淳貴「内田樹にご用心」
内藤酬「戦後社会への呪詛――清水幾多郎と保田与重郎」
和田龍三「反原発の思想」
綾目広治「思想の現在―柄谷行人とアソシエーション論」
境毅「共産主義のリニューアル」
村山章「思考と思想について考える」
吉田智弥「「慰安婦」問題に関する可逆的な論争を」
松田博「随想 グラムシ思想の探究によせて」
添田馨「反知性主義クーデターに抗する存在について―今上天皇と〈象徴存在〉」
神山睦美日本国憲法と本土決戦(上)」
森田弘造「正木ひろし その思想と軌跡━戦時期の個人誌『近きより』に即して」
室伏志畔「方法としての谷川雁」
島崎隆「アドラー心理学の流行」
論文その他
対談:百木漠×中川寧越「余暇の未来」はどこにあるのか
書評
中川寧越 細谷実[編著]中西親太郎、小園弥生[著]『仕事と就活の教養講座』
新刊案内
大塚忠広 横田三郎『現代人権教育の思想と源流~横田三郎コレクション』
136号
134号出来!3月発刊!
2014年/8月発行の特集「若者の現在」に続く、中川寧越+百木漠による責任編集号出来!新進気鋭の論客による特集「私の余暇論」です。
133号出来!
133号 英文!
133号 目次!
132号出来!🔴最近の刊行物から111〜 にて案内!
15年5月 131号
15年2月 130号
14年11月 129号
14年8月 128号
14年5月 127号
14年2月 126号
13年12月 125号
124号!
123号完成! 内容は、「最近の刊行物から」欄にて案内!
本誌は1982年に創刊された。2011年で30年目になる季刊の思想誌である。
―― 一言でその基本性格を言えばどうなるのだろう。
「思想のためのインディペンデントなメディアだ」というところか。
―― この思想誌は何を筆者に求め、何を読者に届けたいと願っているのだろう。
1)何よりも、現代の世界(生活世界と歴史世界と自然世界)が直面している課題に、根本的な分析と実践的な呼びかけで立ち向かおうとする思想の営みを伝えたい。
2)また、哲学的ジャーナリズムを、つまり我々の時代の社会意識や思想の諸形態に対する鋭い、しかし同時に深い批判を伝えたい。
3)そしてもちろん、過去のすぐれた思想を再読し、その現代的意味を鮮やかに読者に語る思想史研究の仕事を伝えたい。
―― この思想誌はどのようなスタイルで討論や共同研究や編集を進めたいと考えているのだろう。
1)まずは「一枚岩」的なあり方を拒むということだ。立場や専門や世代の多様性を、むしろ積極的に生かす形で、知的な協同と真剣な相互批判を行いたい。
2)それから、生活の場と哲学の緊張関係、実践現場と思想の対話というものを重視したい。
3)もう一つ大切にしたいのは、自分たち自身の共同の力でインディペンデントな思想メディアを立派に育ててみせるという姿勢である。
21世紀は人類史の曲がり角という様相を呈している。本当の意味でラディカルな思想が求められている。心ある人々とともに、これからも本誌は挑戦し続けたい。
購読、執筆、そして会員への参画をよびかける。