バックナンバー90号~(1冊¥1200)
第90号 松田博責任編集 二〇〇四年一一月三〇日
梟vs.雄鶏 日常生活世界と「力」 田畑 稔(1)
特集 グラムシ『獄中ノート』研究Part3
グラムシ研究の「広がりと深まり」によせて 松田 博(8)
『獄中ノート』におけるミルスキー公爵の二つの論考をめぐる断章(上)―ノート11§12草稿と「理論と実践の統一性」概念にかかわる幾つかの論点についての予備的覚え書 小原耕一(18)
コモン・センスを超えて―アントニオ・グラムシを中心に 尾場瀬一郎(30)
グラムシとゴベッティ―「文化の組織者」の系譜 中村勝己(40)
グラムシアン・グローバリズムの現段階 ―グローバル化と反グローバリズム運動をめぐって 高嶋正晴(49)
ポストコロニアル台湾と「方法としてのグラムシ」 張 原銘(58)
現代の中米先住民運動―グラムシ的アプローチ 小澤卓也(69)
グラムシの市民社会論と「大衆社会」―後藤道夫氏の見解によせて 松田和男(79)
論文など
上からのブルジョア革命と明治維新 Ⅳの下 大藪龍介(89)
外の主体の弁証法―『精神現象学』意識論の解読(下) 榎原 均(102)
天智・鎌足神話の解体―称制論 南船北馬の向こう側⑦ 室伏志畔(114)
書評 沖浦/寺木/友永編著『アジアの身分制と差別』 木村倫幸(126)
大阪哲学学校のページ (129) 季報『唯物論研究』案内 (130)新刊案内 (131)
編集後記 松田 博(132)
第91号 やすいゆたか責任編集 二〇〇五年二月二八日
梟vs.雄鶏 「プロブレム」としての性 平等文博(1)
特集 二一世紀「人間論」の出発点
リード 二一世紀のシェーラーよ、出でよ、出でて熱く人間を語れ!やすいゆたか(5)
人間観の転換と人間論の大樹―二一世紀「人間論」への提言 やすいゆたか(7)
現代的人間観の新地平 日山紀彦(22)
人間存在と〈自然さ〉の理念 尾関周二(40)
人間・個人・ヒューマニティ―再論・グラムシの人間論 鈴木富久(54)
マルクス主義の人間論から人権論へ―二一世紀を生き抜くために 柴崎 律(68)
ヘーゲルの生命論―弁証法の生成 土屋敬二(80)
yuiken交差点 津波は人災である 平野 啓(91)最近読んだ本 樽本 修(92)
論文など
『獄中ノート』におけるミルスキー公爵の二つの論考をめぐる断章(承前)―ノート11§12草稿と「理論と実践の統一性」概念にかかわる幾つかの論点についての予備的覚え書 小原耕一(93)
『丹青』誌を読んで―在日同胞の視点からみた柳宗悦 鈴木 正(106)
「修辞的な現在」の越境をめぐって―添田馨著『語族』について 室伏志畔(110)
唐代留学生の墓誌の発見について 藤田友治(117)
書評 高田純『環境思想を問う』 服部健二(122)
くらせみきお編著『小林多喜二を売った男―スパイ三舩留吉と特高警察』脇田憲一(126)
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件―戦後史の空白を埋める』/西村秀樹『大阪で闘った朝 鮮戦争―吹田枚方事件の青春群像』 小嶋康生(128)
大阪哲学学校のページ (132) 季報『唯物論研究』案内 (133)新刊案内 (134)
編集後記 山口 協(135)
第92号 二〇〇五年五月三〇日
梟vs.雄鶏 マルクス・エンゲルス科学的社会主義 西田照見(1)
特集 二一世紀のマルクス
二一世紀にマルクスを再読する意味について 植村邦彦(8)
今なぜマルクスか 的場昭弘(12)
二一世紀初めのマルクス理論研究 大藪龍介(16)
私のマルクス研究の現段階 内田 弘(21)
二一世紀マルクスの可能性―「運動実在論」の地平 日山紀彦(25)
マルクスと考える時間とお金の秘密 境 毅(30)
マルクス哲学の環境思想的転回―アメリカ左翼の動向から 島崎 隆(34)
二一世紀のマルクスのために―歴史的唯物論と進化的科学 八木紀一朗(38)
マルクスの本格的な出番がやってきた 大谷禎之介(42)
新MEGAと『資本論』研究の新地平 伊藤 武(46)
社会経済学の再構築にとってのマルクス 宇仁宏幸(50)
共同体論からマルクス研究の意味を考える 渡辺憲正(54)
マルクス理論のコミュニタリアニズム的再生 青木孝平(58)
倫理学たら見たマルクス 田上孝一(63)
『資本論』を説くハメになって 松尾 匡(67)
小特集
田畑稔「マルクスと哲学」をめぐってマルクス思想の蘇生に向けての鮮烈な提言 松田 博(71)
再発掘されたマルクス思想の全体像 石井伸男(78)
二一世紀にマルクスを再読するということ 田畑 稔(85)
マンガ マルクスと「崩壊感覚」 高根英博(96)
yuiken交差点 インドにおける料理と英語の幸福について 秋川大治(104)
深江 浩 追悼
恩師深江浩先生追悼 村上林造(109)
深江浩さんと日本のルカーチ受容 丸山珪一(112)
深江さん追悼―その文学研究 田中邦夫(114)
遺志を受け継ぐ―深江浩氏を偲んで 綾目広治(117)
論文など
ライフスタイルと地球環境問題―島崎・田上・岩佐論文を読んで(上) 山口 勇(120)
聖徳太子架空論の現在―黙契論 南船北馬の向こう側⑧ 室伏志畔(137)
書評 フォイエルバッハの会編『フォイエルバッハ―自然・他者・歴史』 稲岡義朗(150)
藤田友治+歴史・哲学研究所編著『「君が代」の起源』 やすいゆたか(153)
大阪哲学学校のページ (157) 季報「唯物論案内」 (158)新刊案内 (159)
編集後記 田畑 稔(160)
第93号 平等文博責任編集 二〇〇五年八月三一日
梟vs.雄鶏 九条を充電させる「手」 鈴木 正(1)
特集 性に向かい合う哲学
人間にとっての性と現在 平等文博(4)セクシュアル・ライツは可能か 柴崎 律(18)
より良き性的快楽のために―ヘテロ性愛神話の克服 細谷 実(28)
生殖技術のなかの女性身体をめぐって 河上睦子(31)
「フェミ嫌い」の論理あるいは気分・無意識に対する私の語り方 イダヒロユキ(43)
性は血の呪縛を越えたか―閨閥論 室伏志畔(55)
サルトルと親鸞にみる性について 藤田友治(67)
哲学堂・3P〈性〉談―〈性〉的身体の奪回に向けて天野和美/吉岡ともこ/児玉ひかる(77)
山口 勇 追悼 追悼 山口 勇君 大藪龍介(96)
なぜ山口さんは「死の恐怖」を感じなかったのか? 島崎 隆(99)
山口 勇さん、印象ふたつ 上島 武(101)
真の知識人として 岩淵慶一(103) 山口さんと「日中哲学誌上討論」 田畑 稔(106)
論文など
「哲学者」 ベネデット・クローチェ/小原耕一訳(111)
いかにして唯物史観を徹底的に貫徹するか―現在の中国における学術理論研究の一動向 劉奔/藤田美代子訳(116)
「帝国の形而上学」か「個性者の構想力」か―三木清解釈をめぐって 服部健二(124)
二一世紀の社会運動の性格について 平野 啓(137)
書評 中西五洲『理想社会への道―私の資本主義改造論』 堀 雅晴(148)
山口 定『市民社会論』 土居充夫(151)
やすいゆたか『評伝・梅原猛―哀しみのパトス』 藤田友治(154)
越境の会編『越境としての古代(3)』 添田 馨(157)
大阪哲学学校のページ (160) 二一世紀研究会 (161)季報『唯物論研究』案内(162) 新刊案内(163) 編集後記 平等文博(164)
第94号 二〇〇五年一一月三〇日
梟vs.雄鶏 小泉政権とアソシエーション革命 佐藤慶幸(1)
特集 アソシエーションの理論と実践part3 特集リード 田畑 稔(11)
アソシエーション・地域・経済活動市民事業と社会的包摂を追求するアソシエーション ―新たな労働論を基礎に社会システムの組み換えへ 柏井宏之(13)
世界の現実に開かれた地域・陣地の形成に向けて ―「地域」「生産」「社会変革」をキーワードに 津田道夫(23)
コミュニティの中でのアソシエーション形成のために 松尾 匡(32)
フリーター・ニート・ユニオン排除される若者たち―大阪フリーター調査が語るもの 妻木進吾(44)
フリーターの実態とユニオンの現状 小原久季(57)
「ユニオンぼちぼち」のめざすもの 小林 暢(63)
研究ノート:ニートとNPOをめぐる諸論調 関口敦男(67)
障害者作業所精神障害者小規模作業所の現状 臼井良夫(82)
韓国市民運動韓国の政治状況と市民運動 丸山茂樹(94)
藤田友治 追悼
弔文にかえて―藤田友治さんに捧げる 古田武彦(107)
強烈な活動力、責任感と学問的良心を持った人 沈 仁安(109)
藤田友治さんへの追悼の手紙 權 五曄(112)
藤田君の死を惜しむ 西川富雄(114)
藤田友治君を悼む 山本晴義(116)
哲学者藤田友治ノーリターン やすいゆたか(117)
藤田君の思い出 服部健二(120)
藤田友治さんの死を悼む―人と思い出 梅川邦夫(121)
マチガイ主義をめぐって 室伏志畔(125)
論文など
グラムシ・ヘゲモニー概念の展開と現代変革論の視界―「グラムシ像の争点」探訪(3)小原耕一/松田 博(129)
三木清の協力的抵抗の本心―「東亜共同体」論をめぐって 鈴木 正(143)
書評 木村倫幸『鶴見俊輔ノススメ―プラグマティズムと民主主義』 尾場瀬一郎(148)
木村倫幸『鶴見俊輔ノススメ―プラグマティズムと民主主義』 上原 隆(152)
マンフレッド・B・スティーガー『グローバリゼーション』 鈴木一人(154)
越境の会編『和姓に井真成を奪回せよ』 西垣祐作(157)
大西巨人『縮図・インコ道理教』 室伏志畔(159)
大阪哲学学校のページ (162) 二一世紀研究会のページ (163)季報『唯物論研究』案内(164) 新刊案内(165) 編集後記 田畑 稔(166)
第95号 二〇〇六年二月二八日
梟vs.雄鶏「金で買えないものはない」(ホリエモン) 服部健二(1)
特集 日常生活世界と批判の論理 特集リード 田畑 稔(7)
日常生活批判と神秘化批判―アンリ・ルフェーヴルのプロブレマティーク 斉藤日出治(8)
グラムシの日常性論構築のための覚書―ヘゲモニー闘争の場としてのコモン・センス 尾場瀬一郎(22)
「マルクス主義のルネサンス」と日常生活論の展開―ルカーチからヘラーへ 丸山珪一(32)
日常性と権力作用 山田富秋(42)
精神障害と日常世界の(非)変革 平野 啓(45)
日常生活世界批判要綱 田畑 稔(67)
藤田友治 追悼2
畏友・藤田友治さんを偲ぶ 王 金林(99)
藤田友治氏の思い出 白崎昭一郎(101)
想いだすことなど―藤田友治さんを追悼する 黒沢惟昭(102)
論文など
四次元主義のうねり―時空の存在論・国際会議への投稿 村山 章(105)
日常の場でヘゲモニーは相剋する―国家・文化・市民 鈴木 正(111)
明治国家論(1) 大藪龍介(115)
書評 黒沢惟昭『人間の疎外と市民社会のヘゲモニー―生涯学習原理論の研究』斉藤日出治(127) 佐野米子『絆―山手・富秋の日々』 宮前泰雄(129)
大阪哲学学校のページ (131) 二一世紀研究会のページ (132)新刊案内(133
季報『唯物論研究』案内(134)編集後記 田畑 稔(135)
第96号 二〇〇六年五月三一日
梟vs.雄鶏 過去から未来へ―グラムシ回想 山本晴義(1)
特集 グラムシ特集Part4 グラムシへ・グラムシから 松田 博(10)
「受動的革命」期における知識人の役割 ―クローチェ『19世紀ヨーロッパ史』をめぐって 小原耕一(21)
サイードがグラムシに「見た」もの 山根 献(36)
新しい社会運動とグラムシ 丸山茂樹(47)
グラムシの心理主義批判をめぐって―『獄中からの手紙』を中心にして 尾場瀬一郎(58)
国際ワークショップ報告―ヘゲモニー:合意、強制、文化の探求 原田容子(64)
yuiken交差点
蘆田東一著『日本近世幕藩体制超克の法・政治思想』を読んで 殿谷七八四(71)
論文など 明治国家論(2) 大藪龍介(75)
書評 大藪龍介『明治維新の新考察―上からのブルジョア革命をめぐって』 毛利敏彦(82)
砂場 徹『私の「シベリア物語」―抑留生活4年をふりかえる』 高田 健(88)
黒沢惟昭『人間の疎外と市民社会のヘゲモニー―生涯学習原理論の研究』鮫島京一(90)
尹 勇吉『心は錦―誰かがハードルを越えて』 鄭 早苗(96)
吉本隆明『詩学叙説』『詩とはなにか』 室伏志畔(98)
本野一郎『いのちの秩序・農の力―たべもの協同社会への道』 山口文江(102)
大阪哲学学校のページ (105) 二一世紀研究会のページ (106)新刊案内(107)
季報『唯物論研究』案内(108) 編集後記 松田 博(109)
第97号 二〇〇六年八月三一日
梟vs.雄鶏 WTOと食糧主権 山口 協(1)
特集 思想としての憲法第九条
二一世紀に改めて憲法第九条を選び取る理由―「思想としての憲法第9条」に向けて 田畑 稔(7)アホウのオオクニヌシの方が正しいのだ―梅原猛と憲法第九条 やすいゆたか(24)
鶴見俊輔と「銭湯デモクラシー」―9条擁護の視点をめぐって 木村倫幸(33)
公衆としての民衆―久野収の憲法論議 鈴木 正(44)
国際刑法と日本 高山佳奈子(47)
思索から行動へ―実践報告 岩田行雄(53)
読者から・私の第九条論私の九条論 小野正嗣(65)
憲法の平和主義・戦後民主主義の意義と改憲論批判 水野文雄(68)
論文など 「時空の存在論」国際会議に参加して 村山 章(71)
明治国家論(3)―初期ブルジョワ国家の諸形態(上) 大藪龍介(82)
書評 武健一/脇田憲一編著『労働運動再生の地鳴りがきこえる』 泊 寛二(97)
『もうひとつの世界へ』ロゴス社(隔月刊誌) 松田 博(99)
細谷実『〈男〉の未来に希望はあるか』 木村倫幸(100)
津田道夫『国家と意志―意志論から読む「資本論」と「法の哲学」』 石塚正英(102)
藤本進治(山本晴義編・解説)『認識論』 蘆田東一(112)
林 順治『アマテラス誕生』 室伏志畔(115)
越境の会編『越境としての古代(4)』 西垣祐作(118)
大阪哲学学校のページ(121) 二一世紀研究会のページ(122)新刊案内(123)
季報『唯物論研究』案内(124) 編集後記 田畑 稔(125)
第98号 平等文博/大野光彦責任編集 二〇〇六年一一月三〇日
梟vs.雄鶏 楽しい不便 稲岡義朗(1)
特集 「こころの時代」と「こころ化」の論理 特集にあたって 平等文博(10)
心理療法と新自由主義の持ちつ持たれつ 小沢牧子(12)
「社会のこころ化」への三つのスタンス 森 真一(19)
「こころ化」の思想に若者はなぜ惹かれ、またどこへ誘導されるか 平等文博(30)
魂の収奪システムとしての宗教をめぐって―理論的〈反〉宗教と実践的〈脱〉宗教のススメ 笹田利光(43)
PTA活動と「こころの教育」 三上 晋(52)
yuiken交差点 特集「思想としての憲法第九条」を読む 鈴木 正(62)
未来はどうなるかわからない。しかし… 義積弘幸(66)
論文など
拙著『人間の疎外と市民社会のヘゲモニー』に対する書評へのリプライ 黒沢惟昭(67)
明治国家論(4) 大藪龍介(77)
書評 大藪龍介『明治維新の新考察―上からのブルジョア革命をめぐって』 永井 和(93)
九条の会・さいたま編『アジア侵略思想のルーツ―近代日本の歴史認識を問う』堀本秀生 (99)
藤田友治編著『遣唐使・井真成の墓誌』 保井晶華(102)
大阪哲学学校のページ(105) 二一世紀研究会のページ(106)新刊案内(107)
季報『唯物論研究』案内(108) 編集後記 田畑 稔(109)
第99号 添田馨/室伏志畔責任編集 二〇〇七年二月二八日
梟vs.雄鶏 忌まわしい日々の思い出―吉本隆明の丸山真男批判 西村俊一(1)
特集 吉本隆明
方法としての吉本隆明―グラフト国家論について 室伏志畔(13)
吉本隆明の死の思想 神山睦美(25)
国家と共同幻想―吉本隆明の国家観批判 正慶 孝(34)
吉本隆明の教育論について 西垣祐作(43)
吉本言語論における指示表出の根源性について 瀬尾育生(52)
吉本隆明“非知へ”以後―ただあるがままで〈世界性〉であることの現在山口保広(62)
吉本隆明と金時鐘―来たるべき「戦後」の到来のために 細見和之(68)
「自立」思想の原点─「擬制の終焉」をめぐって 松山慎介(79)
「第九条」論の吉本隆明 添田 馨(88)
論文など
エルネスト・ルナンのドイツ精神と歴史主義―ジョルジュ・ソレルの未発表の論考(上) ジョルジュ・ソレル/小原耕一訳(98)
テキスト分析による“世俗批評”の方法―ビル・アシュクロフト+パル・アルワリア著 『エドワード・サイード』大橋洋一訳(青土社)を読む 山根 献(124)
明治維新をめぐって―『明治維新の新考察』に対する書評へのリプライ 大藪龍介(130)
書評 山中隆次訳『マルクス・パリ手稿─経済学・哲学・社会主義』 日山紀彦(140)
中川・大倉・武田編『レイラ・ザーナ─クルド人女性国会議員の闘い』 木村倫幸(146)
大阪哲学学校のページ (150) 二一世紀研究会のページ(151)新刊案内(152)
季報『唯物論研究』案内(153) 編集後記 室伏志畔(154)